爆裂ナイーブが見た世界

爆裂な線香花火

ジブンジクのみっけ方

 みなさん。生きてるかね。生きているのかね、自分の人生を。

 こんなことを言うと「は?なにそれ。自分の人生なんだから自分の人生を生きる以外になにがあんの?なに言ってんの?」というのが世の中の大多数のご意見であろう。いや、ご意見なだけでその大多数の皆さんの実際の心の中はわからない。ただ、自分の人生を生きてこなかった歴=実年齢で三十云年生きてきた私からすると、そもそも自分の人生なんていう禅寺の坊さんと小僧さんの朝のお説法にでもなりかねないお題目が人生感として脳内で無限リフレインしている時点で私は何かしらのマイノリティーなのであろうと思うのだ。いや、マイノリティーだった。と今では言えよう。まさかこの思考が過去形になるとは以前の私は夢にも思わなんだ、というのが現時点での感想なので、世にいるマイノリティーの皆さん。恐らく悩んでおられるであろうと想像するのだが、それも過去形になる、という話を今日はしてみようと思う。ご参考になれば幸いでございます。

 自分の人生を生きるとは言い換えると自分軸で生きるということなのだが、そもそも自分軸で自分の人生を生きるってナンデスカ、って話しだ。もう、これは生きていくうえで次々と何なら毎秒ごとにやってくる選択肢を自分の判断で選びとっていく、そうやって自分で取捨選択して生きていく、ということなのだと思う。「なにソレ、そんなん当たり前やんけ」とは言わんでほしい。その当たり前がまかり通らない人生がこの世には存在するのだよ。どれだけあるかは「コンニチハ!自分の人生を生きてますか?自分軸の按配はどう?」と出会う人出会う人に聞いて回ったことがないのでその数はわからないのだが、私自身がその選択権を持たず生きていたので少なくとも一人はいます。ここに経験者がおります。コンニチハッ!

 ここでその自分の人生を生きるだの生きられないだのといった話をすると頭をよぎるのは「そんな贅沢で馬鹿なことを言ってるんじゃない。息をしてるだけありがたいと思え。黙って働いて飯食って寝ろ」という、それこそ大多数からの声だ。これは残念ながら私の空想上の意地の悪いお友達が言ったことではなく、どうすればまともに自分の人生を生きられるのかと右往左往して地べたをのたうち回っていた数年の間にそれこそ街頭インタビューのように飲み屋で出会ったおっさんたちに聞いて回った結果、言葉は違えど皆様からいただいたお言葉の総括だ。今思えば聞く相手を間違えていた感は否めないのだが、救いを求めて夜な夜な行っていたアンケート調査の対象が40~60代くらいのおっちゃんたちだったので、偏った回答結果が出たのは否めない。だがしかし、きっとそうなんだな、と思うのだ。きっとみんな「自分の人生を生きるとは」などという飯の種にもならないことは考えてはいないのだ。なぜならば、ほとんどの人はそんなことを考える以前に既に自分の人生を生きているからだ。

 いやいや、待ってくれよ。赤ん坊がホンゲァ!と生れた瞬間からその子の人生はその子のものでしょう?人生の選択肢?自分以外に誰に選択権があるの?自分以外の誰の軸で生きるというの?と、ごもっともなご意見をお持ちの方は恐らくこのブログから離脱しようとしている5秒前だとお見受けする。ただ、もう少しお付き合いいただきたい。なぜなら、自分の人生を生きられない勢の人々が自分の人生を生きるに生きられない理由の一つには、そのまっとうな感覚をお持ちの方からの無限の無理解によるところも大きいからだ。決して誰それが悪い、という短絡的な話ではないのだが、数ある要因の中のひとつではあると私は確信しているので、そうな方もそうでない方も、まずは読んでいただければよいと思う。読めばわかるさ、読まねばわからんさ。読んでもわからないかもしれないさっ!ダー!

 ひとつここで大切な話なのだが、明るい人と暗い人の違い、天真爛漫な人と陰気な人の違い、心から笑えている人とそうではない人の違い。この辺りが自分の人生を生きている人、そうでない人の違いの正体かもしれない。ブログ離脱まで3秒前の皆さんは楽しいことを心から楽しいと感じ、美味しいものを食べて美味しいと感じ、幸せとは何なのかをこまごまと「これは幸せということに該当するのやろか?」と顕微鏡を覗いてその対象の研究しなくてもよい人生を送られているのではないのだろうか。楽しさや美味しさ、幸せを「これをそう思っていいのだろうか」とワンクッション置いて自分の感覚を外から眺めるプロセスが必要がない、だから天真爛漫、つまり心に素直でいられるのだと思う。

 片や、顕微鏡をいつも小脇に抱えた勢の皆さん。「心に素直」ってなに?と、もうそこから理解が追い付かないのではないだろうか。心に素直になるという感覚は恐らく物語の中やファンタジーであって、空想上の産物でしょう?と真剣に言えちゃってる勢いではなかろうか。いや、そんなことすら思わないくらいに心に素直になるという感覚とは縁遠い毎日をお過ごしではなかろうかと思いを馳せさせていただく。だって、私がそうだったから。

 いつ、どこにいても、何をしていても、誰といても、自分がそこには居ない感覚。目の前に繰り広げられている世界が、目の前にあるのに遠い世界に感じる。どこにも自分が属していない感覚。確かに息をして、心臓は鳴って、生きてはいるのだが、その全てが自分のものだとは感じられない。私は、ずっと「他人の人生を生きているようだ」という意識があった。自分がないのだ。どこにも自分が居ないのだ。それはそれは孤独だった。ただ、それを人に悟られない術も備えていた。順応するスキルは表面上を取り繕うスキルのオリンピックで常にワールドレコードを更新していたと思う。私の心の棚は不本意な上手に立ち振る舞う選手権のトロフィーとメダルで埋め尽くされていった。ただし満足感などはあるわけがない。トロフィーを眺めるたびに虚しさだけは募っていく。たまに私のスキルを見破る人に出会うこともあったのだが「カメレオンみたいだね」との感想をいただいたことがある。カメレオン。環境によって肌の色を変え、その場に順応するように見せかける天才だ。そう。わたしもその道の天才になっていた。なぜかというと、自分がないから。自分で選ばず、選ぶということを知らないカメレオンは周りの色を自分を投影することでやっとその場に居ることができるのだ。「その場に存在することができるのだ」と書きたいところではあるが、実際には「私」はそこにいないのだから、そもそも存在していたかも怪しいものだ。

 なぜそのようなことになったのかというと、原因は別として、生きる軸を外に奪われていたからだと今でははっきりと言い切れる。本来、生きる上で当然のようにできるはずの「選択をする」という当たり前さを失っていたのだ。楽しいと思うこと、美味しいと思うこと、何かを夢見ること、自分が幸せになること、そういった物は自分で選ぶことでははなく、誰かの許可が必要。誰かに認められなければそのように感じることすらままならない。当時の自分を思い返すと虚しいという感覚もさることながら、常に混乱していたように思える。この混乱は、五感で感じることや自身の喜怒哀楽といった感情にも他者からの批評を瞬間的に考えるという余計なプロセスを嚙ませていたからに他ならない。楽しいと思うのが正解だろうか、美味しいものを美味しいと思う感覚が正しいのだろうか、幸せという感覚は果たして自分で感じ取ってよいものなのだろうかと、感じる前にまず考えてしまうのだ。なぜなら自分で選択して良い、自分で決めて良いとう選択肢を持ち合わせていないから。

 先ほど、原因は別としてと書いたが、原因とすれば世の中には他者をコントロールしようとする人が一定数いて、そしてコントロールされることを受け入れてしまう人も不特定多数いるというところにあると思う。この関係は親・子供、友人間、パートナー間、姉妹・兄弟間、社会の中での人との繋がりと、あらゆる2名以上の人間が集まるところに起こりえる。コントロールする側がもし意識せずとも結果的に相手の思考や行動を制限し思惑通り動かそうとするのであれば、その逆のコントロールされる側には実は自らコントロールされようなどという意識はない。浸透圧の違いのようにも思える。制御しようとする側は、その主だった理由とすれば自身の思惑や望み、思想なんかを相手に反映させることであろうが、そこには本人が気づいていないだけで「そうしてやろう」という意思があるのだ。要は思い通りにしたいから例え本人が意識しておらずとも相手側の選択肢を奪い、自身の選択肢を相手に与え選ばせるのだ。ここで言う選ばせる、というのは一見してあてがわれた選択肢のように見えるが、もはやそこに「選べない」という他の選択肢はない。つまり、結局選ばされた本人は選んでいないのだ。

 この選択肢を奪われがちの側にいる人間はそもそも本能的に自己防衛能力に長けていない。この自己防衛能力とは成長する過程で培われるものもあるが、生物として生まれた時からも備わっているはずだ。そして、その防御力の初期設定の精度や質がが個々で雲泥の差なのだ。凸と凹があるように、コントロールを実行する側にコントロールされる側が不幸にも出会い絡めとられた時、よっぽどの本能的な防衛本能と知恵と生命力がなければ逃れることが出来ない。

 「もっと自分の意思を持ちなよ」「嫌なことは嫌と言わないと、だからダメなんだよ」「いい人ぶっちゃって、自分が辛くないの?」「いい人だよね〇〇さんて」

 この辺りのことを言われる人は、恐らく自分で選びとるという選択権を持たされなかった人たちではないだろうか。俗に個人が「いい人」と表現される場合はその背景には相手を思いやるが最終的には自身の利も優先できるので互いがそこそこ同等の好感を持てるところに着地できる場合と、自身の利などという発想がそもそもなく結果的に相手の都合にのみに優位なところに着地するという選択をしてしまう二パターンがある。前者は周囲とは健康的な関係を築き、恐らくはコミュニティーの中で人気者と称される部類に属するだろう。なんとも幸せ者だ。では後者はというと、周りはハッピーだろうが当の本人はといえば文字通り生き地獄を生きているのではなかろうか。絡めとられ搾取され、しかし本人はそこから逃れる術を知らないので周りには「いい人」と評されてもそこに喜びなどは微塵もない。だが嫌な奴へのなり方も知らないのだ。

 自分軸の見つけ方は、この他者との間にある凸と凹の関係を見極めることも大切なのだが、そもそも自己防衛能力を備えていなければ結局は気力と生命力を吸い取られるだけになってしまう。生まれつきの能力の設定はどうしようもない。なので必要なものは後付けするしかないのだ。だがその後付けすらもそもそも何が足りていないかわからなければ補充しようがない。なので、足りないのは「自身で選択する」という決定権。そしてそれを決して他者に渡さない、すべての軸を自分の中に置くことだ。簡単なところでは、瞬間的に頭を過る「これで正しいのだろうか」という発想の一人称を自分にすることだ。他者にその軸がある限りは「〇〇にとってこれは正しいと言えることなのだろか」と主語が第三者になっている場合が多い。というか、完全に第三者になっている。これを「自分はどうなのか」「自分はどう感じるのか」「自分は嬉しいのか悲しいのか」と自分の感覚に真っ先に気づき、それに沿って自分にとって喜ばしく有益な選択を行うということが自分軸で生きるということなのだろう。その先には「自分の選択に責任を持つ」という次なる段階が待っているのだが、他でもない自分の責任なのだから、他人の選択に対する責任なんぞよりもよっぽど祝福された責任であろう。

 今回は自分で選択できている人、図らずも自分の選択を強要する人、自身の選択権を持たない人について書いたが、この構造が最後の選択権を持たない人のそれを持てない大きな原因になっている気がするのだ。なので、ブログから離脱せずここまで読んでいただいた方にはそれぞれが属している気質について認識していただければこの世は少しだけ良くなるような気がしている。

 

 人生を生きる上で選択できる権利というのは近年ようやく誰しもがそんなの当たり前でしょ、と思えるほどに常識化してきてはいるが、まだ誰しもが当たり前を当たり前とは思えないでいる世界ではある。

 これまで自分で選択したことのない人は、この先で最初の選択をする時にはとんでもない勇気が必要になる。人生初めての経験をするのだから。ただ、その先には見たこともない世界が待っていて、初めて自分の居場所を自分の中に見つけることができるはず。他人の世界で生きていた自分をようやく自分の中に見つけることが出来たら、心から喜んで、嬉しさを感じて、どうか自分に「おかえり」と言ってあげてほしい。

 

 一人でも多くの方が自分の中に戻れる日がくることを心から願ってやまない。

 

2023.9.4

人は皆等しく幸せになれるよねと思っていたらそうでもなかった件について

 自己肯定感。なるほど、自己を肯定する感覚。いや、感度か?

 今でこそ恐らく多くの日本人の脳みそに一単語として格納されているのではなかろうかと思われる概念だが、そもそも何なんですか、自己肯定感って。と、よく思うのだ。

 なんでまたそんな飯の種にもならない小難しいことをよく考えているかというと、私が正にその自己を肯定する性能が恐ろしく低い部類に属していると気づいたからだ。そう、俗に言う「生きづらさ」のレベルMAXにしてこの世の姿を借りた地獄を生きながらえているからである。

 ありがたいことに、現状のここ数年はその克服段階であり、気づけばなんでそもそも自分を肯定せなあかんねん。人間オギャアと生まれた時点でハイ肯定!だろうが、とも理解しているのだが、どうにも心が納得していないのだ。実は頭での理解も乏しい。正解が、オギャアで肯定いっちょうあがり!では無い気がするのである。

 いやいや、あんた、生き地獄ってそんな大げさな。考えすぎだよ、そして自意識過剰だよと言われ続け、そのたびに「悩んでる人間にそんな腹立つ豆腐みたいな助言してんじゃねえ」と心では毒づき、ついでに傷つき悲しんでいたが、その助言は有効なのかは別として、アリではあるのだろう。自己肯定感などというものは主観による主観のための主観だから、まあ10人いれば10通りの解釈があって仕方ないよね、というのが今のところ辿り着いた回答だ。じゃあ、なぜにそんなふわふわしたものにこんなにも振り回され、仕舞いには我が人生ディストピアである、なんて思考に支配されているのか、という話だ。そういう話をしようと思う。そして、最後にはそれなりの落としどころに到達できる気がするのでご興味のある方はお付き合いいただきたい。間違えてたらごめんね。

 そもそも自己肯定感なんて高尚な、というかそれが発掘されるまでの過去の歴史では特定もされていなかった概念が一体全体どこから湧いて出てきたのかが気になった。これだけ私を振り回す呪いの言葉なのだ。戦う前に敵を知っておきたいという、私の物事への対峙方法の基本姿勢からも「どうも自己肯定さん、ところであんた誰?」ということから始めねばならんのだ。

 私が発見した概念ではもちろんないので、発想の起こりからそれを研究して研磨して、きちんと説明してきた偉人たちがおられるわけだ。もう彼らのことは人間オタクというか、人の心の中身の知りたがり屋さんたちとでも呼ばせていただきたい。目には見えないものを見つけてそれが何なのか特定したのだ。いやあ、地球広し、人知は深しだ。人類のあくなき探究心は宇宙へやら地底へやら、人の頭と心の中身へやら、どこまでもフルスロットルでぶっ飛ばし、突き進んでいると思う。

 はてさて、その偉人についてだが、便利な世の中で、ネットで検索するとすぐにヒットした。彼らの研究研磨の成果も今やググればポンである。ネットのない時代に同じ生きづらさで悩んだ人々のためにも、私はこのネットを使って今悩む人、これから悩む人にググってポンしていただけるようにグダグダとものを書き連ねていく所存である。

 話が逸れたが、最初に日本で自己肯定感について提唱されたのは臨床心理学者の高垣 忠一郎氏のようだ。それが1994年のことである。なるほど、約20年前か。だがしかし、偉人高垣氏が研磨してくださった以前はどうだろうか。そもそもの発端はと、更にググったところ18世紀のスコットランドの合理主義啓蒙家のデイヴィッド・ヒューム(David Hume)氏がそれを形作ったようだ。それ以上に出どころを掘り下げると、まだ人類が槍を振り回してウホウホしていた頃からの思考の歴史探索をしなければならなくなり、そんな時間も気力も根性もないので、一旦は17世紀発祥ということにしておいていただきたい。そんなこんなで、話を進める前に300年も前に自己肯定感などという、どえらいものを見つけたもうたデイヴィッドさんのことがとても気になった。

■突然ですがデイヴィッドさんてこんな人!
(ググった。英文からの理解なので私の翻訳フィルターにかけられていることは悪しからず)

生誕:1711年5月7日
出生地:スコットランドスコットランドは天才量産地だがこの辺りのイングランド関連の歴史も説明には時間と気力が必要なのでいずれまた)
卒業校:エディンバラ大学(ひ~、ヨーロッパの大学の歴史が深すぎる)
職業:(合理主義)啓蒙家、哲学者、歴史家(あんたがもう歴史だよ)、経済学者、図書館司書
デイヴィッドさんが知りたかったこと:人は先天的な感覚ではなく経験や思考の癖からでしか合理的な判断を下せないっぽいし、そうに違いない。

 この「物事を合理的に判断できるか否かという点は先天的な分では賄えきれない」という当時の人間には夢にも思わないヒトの思考に対する考察にたどり着いた超偉人(知りたがり)だと私は思うのだが、その思想について自分の過去の記憶に思い当たるところがある。高校時代の倫理の教科書で私が深く感銘した哲学者デューイの「経験が知恵・知識となり次の行動の仮設を立てられるようになり、人間はその繰り返しでのみ合理的な判断を行える」という提唱があったが、その根源なのではないのだろうか。ここで高校生の私を痺れさせてくれたデューイと再会するとは夢にも思わなんだが、高校当時の「何当たり前のこと言ってんだ」と思いつつも「ですよね」と私の頭と心が共に納得したのを覚えている。

 さて、つまり300年前のエディンバラでデイヴィッドは「なんとも人々を見ていると幸福になるべき筋道が明確にもかかわらず、ミナサンなんでそんな苦悩してるんデスカ?」という人を多々垣間見たのではないかと想像する。なんせ300年前のことであって、昨日の昼飯の内容も覚えとらん私には想像するしか道がなくてだな。調べるよりも想像するが早くてね。
 つまり。つまり、だ。300年もの前から、そして生活水準や情報量もはるかに旧来のものであった当時から「なんか生きづらそうな人がおるけどなんでやろ?なんで解決策に気づかへんのやろ?」という人がデイヴィッド青年の周りにはたくさんいたのでしょう。幸運にも彼は自身がネガティブと捉えていた先天的な分(地頭の良さ)があったがために、「いやなんで気づかへんの?わかるやん、考えたら。あ、わからんのかいな。ほんならなんでわからんのかその理由が知りたいな」と図書館で棚に本を戻しながらビビッときたのだろう。彼の知的好奇心がそこに引っかかってくれたおかげで、デューイ含め数々の思想家・哲学者にその思想が受け継がれ、今日の「自己肯定感」なるものが形作されたのであれば、今夜から私はエディンバラへは足を向けて寝れなくなってしまう。ちなみに私は向かってどかちらが北かはわかっていない。

 さてと、これで私の知りたかった「自己肯定感」思想の爆誕の瞬間を理解したわけだが、そうなるとその正体は、まずは物事の捉え方の正しい正しくないは別として、自分に良いように受け入れる、ということが最初のスタート地点ではないのだろうか。ただこれは立てそうで立てないスタートなわけで、なぜかというと、その境地に至るには思考を形成する周囲の環境が最大要因だからだ。本項のタイトルにもした「人は皆等しく幸せになれるよねと思っていたらそうでもなかった」という、そもそもの原因はここなのである。ホギャアと生まれた瞬間から生きる権利(というか、生物レベルで考えれば権利もクソも生まれたら生きる。ただそれだけなのだが)を得るところまでは平等に(頼んでないのに)与えられるが、そこからどう幸福を追求できるかは、残念ながら生まれついた環境に既に存在している概念次第なのではないだろうか。書いていてもう絶望しかないのだが、いかんせん私はそこから這い出した身であるので、一応希望はある、と言うておきたい。
 しかしここで、「おいおいじゃあ自己肯定感ってのは後付けでしか成り立たないのかい。生まれついた環境なんて、そんな自分ではどうしようもないもの頼みなのかい。自己を肯定してくれる環境という名のハッピーチケットの有無で人生感を決められてたまるかよ」というのはごもっともなご感想だし、私自身もその通りの感想を抱いている。だが、ここではっきりとググらずに私自身の言葉で伝えることができるのは「そうなの、その通り。自己肯定感なんてもんは環境の差によって、そもそもそれが必要な人とそうでない人がいるの。生まれた環境の初期設定で本人の意思にかかわらず自己肯定感を搭載できている人と、血反吐を吐いて後からグレードの低い機能でもいいから自分自身で自己肯定感をカスタマイズして、自分で人生を走れる車にしないといけない人がいるの」という、神も仏もあるもんか、てな結論をお伝えしておきたい。なんということだ、後者には救いが全くないではないか。
 救いがないついでだが、自己肯定感なんてものがなくても全く問題のない世界もあるということはお伝えしておきたい。それこそ、槍もってウホウホしていた時代の人類だ。日の出とともに起きて、マンモス狩ってどんぐり拾っていた頃に、果たして自己肯定感などという概念は必要だったであろうか。その日を生き抜くことが最大の目標であったのであれば、自己など肯定する必要もなく、そもそも自己たるものの認知も不要であったであろう。
 余談だが、どうしようもない焦燥感に襲われたとき、私はすべて文明のせいにすることで溜飲を下げるのだがあながち間違えていない考え方だと思う。水辺に人が集まって文明を築きだした瞬間から、そこに3人以上集合した時から自分が何者かを知る必要が出てきたということではなかろうか。そう、役割ができたもんだから、一介の動物のヒトであれば必要のなかった「自分には何ができるのやろか。自分は何がしたいのやろ。そもそも自分とは?」なんて、暇かよっ!てな思考が生まれて、そしてヒト科である我々の脳みそのシナプスも元気いっぱいにそれに反応してくれた挙句がこの【自己を肯定せんことには幸せは訪れない2023年・夏】までに人類はたどり着いたのだと思う。
 更なる不幸は、前述した通り自己を肯定できるかは環境によるところが大きいところだ。「困難はなんとかできるはず」という人類が持つ期待と過信を大きく裏切っている現実がとどめを刺している気がする。「希望がある代わりに絶望も必ずや存在する」という理解に至って、初めて心からガッカリできたという経験を持つ私が言うのだから間違いはないはずだ。
 じゃあ、どうすんのよ。絶望させて終わりなのかい。というご質問に対しては意外かもしれないが「いや、そんなことはないよ。」と目を見て言わせていただきたい。なぜなら私自身が自己肯定感の正体を見つけ、それが生きる上の基礎と言っていいほど重要なものであると今では理解し、もともと持っていなかったソレをどうにかこうにか自身で養ってきたというプロセスを体現したからだ。我ながら、もともと茨の道だったのか、敢えて茨の道を行く性分だったのかは考えても仕方のないこととしてドロ水に流したが、よくもまあここまで自身とそれを育んだ環境を正しく認知したなと我ながら驚嘆している。

 前置きが長いんじゃ、はっきりどうやったか教えろ、という皆さんには前置きが長くなったことをまずお詫びのたい。そして、どうやったかといえば、まず諦めたのである。自己を肯定できない、自分に価値を見出せない。ならば現状はそういうことなのであろう、と諦めたのだ。こんなはずではない、こんなことが私の人生に起こっていいはずはないと、正しく異議を唱えるのもまっとうなのだが、私が今理解していることは、そんなこで自己を肯定できるなら300年も人類はこの件に関して悩んで考えていない、ということだ。槍を捨てて水辺に集まったあの日から、人類が理想の生き方と幸福感に味をしめたあの日から、もう諦めるしかないよね、というのが実に手っ取り早い。自己を肯定しないことにはどうにも生きづらい世界になっちまったのだと諦める。そして、本来であれば基本設定として搭載ができる人もいるはずの自己肯定感がなぜ自分には備わらないのか、その原因を突き止めるのところがやっとのスタート地点だ。しかも、これすらも自分で気が付かなければならないという、人によっては人生は激鬼モードなことも事実であろう。だが、何度も言うように、その鬼モードが鬼モードなことに気づいてからでなくては己の人生と思考の軌道修正は叶わないのだ。

 私がどうやったか?
 気づいて認めて、悲しいながらも環境を否定し、一からやり直したのだよ。そうして、外部によってあてがわれていた思考の歪みを正した。そこで何が起こったかというと、まっとうな原寸大の世界が見えた。そうすると、自己肯定もへったくれも、私は間違えていなかった、自身の判断で生きることに何ら不幸になる要素はなかったと認識を改めることができた。月並みな言葉だが、それはもう生まれ変わったような感覚だ。そりゃそうだ、自己を肯定できない内には、他者の価値観と他者の判断基準の目を持って生きなければならないのだから。誰の人生じゃ。
 ちなみに、ここに至るまで幼少期から私は自分の人生を「他人の人生を生きているようだ」という感覚に囚われていた。だが、ここにきてどうだろう。ようやっと自分の人生を生きている。自己を肯定したのか、人生を取り戻したのか、そんな大それたものでもないように思う。ただ、自分の人生を生きるには自分の目でものを見ないことには永遠に人の人生を生きることにはなるのだな、と確信している。

 誰の人生だよ。

 自分の人生だ。

 自分の目で見て自分で感じて自分で判断する。たったそれだけなのに、それがままならないこれが現実だ。この先、300年経てば偉人の研究をさらに研磨した偉人によって、生きづらいなどと言っている人間が一人でも少なくなっていることを心の底から祈ってやまない。

 

 

2023年8月18日

都合の良い子と悪魔の子。これからの女はどうあるべきか

 フェミニズム。についての話をするわけではないので最初に断っておく。なぜなら現代のフェミニズムについて私がよくわかっていないからだ。

 男女の社会における機会の均等については私もよく考えるテーマではあるが、昨今のフェミニズムといえばどちらかというと欧米、とくに米国のセレブリティーと呼ばれるエンタメやファッション界の上位に上り詰めた女性により声が上げられているムーブメントであって、その主張を日本国内の実情に置き換えてみると同様のムーブメントが起こるにはまだまだ期が熟していないように思える。

 では、日本で純然たる現代のフェミニズムのムーブメントが起こったと実感できるのはどんな場面でだろうか。例えばAKB48という女性アイドルグループ内にて47人の競合を相手に最上位に登り詰めた一人のメンバーがある日このような発言をした時ではないだろうか。

「私が歌うのは女性の地位及び社会的な待遇の向上を実現するための発信の場を作り上げるためであった。その土台が整った今、今後はグループの方向性として『男性を喜ばせる』といったテーマは一切捨てることをここに宣言する。女性が男性と同等に自立し認められ、法に則った確固たる権利が保証される社会を実現するために私たちは歌という表現を通して発信してゆく。また、これ以降は女の性を誇張するような衣装を着る場合であってもそれは男性に媚るためではなく、フリルのミニスカートが繊細で弱い女性の印象を与えてきたこと、そして男の性的欲求の対象として見なされてきたのはあくまでも過去のものであり、本日以降フリルはただの被服として存在するものとする。すなわち着用している本人の能力、知性、人格には一切係わらないと全国民は心得るように。異論のある者は討論番組で意見を交わさせてもらうのでぜひご出演を。」ってなところだろうか。

 うん。ないわー。ないでしょ。ないない。例え話が我ながら極端を爆走したが、フェミニズムの米国的なムーブメントが日本で起こるということは極端に言えばこういうことなのではなかろうか。そして、これが起こらなければ日本でのフェミニズムムーブメントもゆくゆくは『なんかそんなんあったね』と塵霞となり、世界的に見れば相変わらず色々と遅れているなんだか微妙に残念な国ニッポン。を突き進んでゆくことになるのかもしれない。

※私の記憶にある限り、日本で見たフェミニスト田嶋陽子が最後だったと思う。当時の討論番組なんかではそれはもう男女の社会的及び家庭での役割の平等について、主張からの否定からの主張という名の爆弾をバカスカと投下していた。(ただ、爆弾を落とされた討論相手は死ぬので議論はしていなかった気がする)

 フェミニズムの話はしないと前述した手前、『じゃあこんだけ話しておいて何の話しをするんだよ』とごもっともなご指摘をいただきそうなところだが、『何でフェミニズムムーブメントが日本で起こらないのか』についてを話したいのだ。

 そもそもフェミニズムの発端というのは過去の歴史において女性の社会的権利が認められず『女のお前は一生家にいろ』と男社会に人生の役割を言い渡されていた女達が『いやちょっと待て。世の中の、いや人生の舵取り役にわたしら女も入れんかい!あんたら知らんようだけど女には乳と子宮の他に脳味噌もついとんのじゃ!』と声を上げ始めたことであろう。声を上げるだけではなく行動し、初めは選挙権、そしてゆくゆくは参政権の獲得と社会的な機会での性差別撤廃を時をかけて実現してゆく。これも当時の期が熟したことで起こったムーブメントだろう。女性の理不尽に対する怒りと不満と、それを正そうとするエネルギーが満タンになったのだ。つまりは女達が元気だったのだろう。元気がないとなんにもできないのは、いつの時代もおんなじだ。

 ムーブメントは波の勢いが足りず砂浜を撫でるだけの事もあるが、勢いが溢れんばかりとなった場合は津波のように高く押し寄せるビッグウェーブとなり既成概念を飲み込んで破壊する。破壊された古い概念は瓦礫となり、その上に新たな常識を作り出す力があるというのが本来のムーブメントだ。それはもはや革命的と言えるだろう。ただ、苦労して作り上げた新しい常識の足元には、過去の古めかしい慣習という名のDNAがべっとりと付いた瓦礫が横たわっている。そして時折そのDNAを持つ芽が隙間から生えてきては余計なことを言うのだ。今ではそれは失言と呼ばれる。現代ではパワーのある欧米セレブたちが、うっかり失言を放っちまった化石おじさんや化石おばさん(実は若い人も割とたくさん混ざってたりする)を千切っては投げ千切っては投げてボコボコにしている。もしくは欧米に限らず日本国内でもインターネットの世界で不特定多数の一般市民評議員たちにより化石達はボロクソに叩かれて糾弾され吊し上げられるという恐ろしい私刑が待っている。

 ムーブメントは勢い無くして存在し得ないものだが、人の思いが集合して起こった勢いは他の考えも存在して良い、という寛容性は持ち合わせていない。今日の多様性、つまり『色んな考えがあっていいよね!』の『色んな』の意味は実は大変に限定的なのだ。

 日本国内でフェミニズムのムーブメントが起こらないのは、ぶっちゃけ女達が実際にそこまで困ってないし怒っていないからではないだろうか。もしかすると怒り方がわからないから表面に出てこないのだろうか、と考えたこともあるのだが『わたし、怒っているのだけれど、怒りを表現するってどうすればいいのかしら?』と首をかしげているのならば、それはムーブメントだフェミニズムだ以前の問題であろう。元から時代によって毒気を抜かれているのだ。そりゃ闘いにはならんだろうて。これはこれでとんでもない問題だ。怒れ。怒るのなら怒り狂うのだ。感情が欠落した先に明日はないぞ。と、喜怒哀楽の感情がギリギリ欠けてはいないが、かなり低空飛行の私が言うのだから間違いはない。はずだ。

 話しを戻して、女がさほど困っていないという可能性のもう一方で、現状を変えられては不都合な女というのもいるのであろう。私はこれらの女性を『都合の良い子』と呼んでいる。命名のきっかけはこうだ。かれこれ20年ほど前(だったか10年くらい前だったか)、テレビ番組でとある癖が強めで大御所と呼ばれるにはまだ三歩くらい手前にいる男性俳優が、演劇界における彼なりの不満をぶちまけていた。やれ最近の演技派と呼ばれる若手は生意気でどーだとか、スタッフの態度があーだとかで「はー、おっさんも溜まっとるんやなぁ」と、たいして真面目に視聴していなかったのだが、司会者がそのおっさん俳優が最近ドラマで共演した、当時女性に爆裂人気だったファッション雑誌の女性モデルについて聞いたところ「あの子はほんっっっとうに良い子!いまどきあんな子いない!!」と、太鼓判を押していた。そのおっさんによる判の効力の程は知らないが、私が思うに彼女はこのおっさんに何を言われてもニッコリと笑って「はい」としか言っていなかったのだろう。あるあるである。おっさんにとって良い子とは、意見せず刃向かわず、自己主張無く、なんといってもおっさんを否定しないし意見もしない。ニッコリ笑って「ハイ」とだけを繰り返す、つまりはおっさんの脅威にならないのが良い子の定義なのだ。当時の私は『そんなん、おめーさんにとってただ都合がいいだけやないか!さんざん最近の若手に息巻いておいて、その上で良い子ってのは〝俺を煩わせない子デス!“ってなんだそりゃ、情けねえ!』と、勝手に想像して勝手に憤った記憶がある。(私の記憶は曖昧になりがちだが、この番組のことはよく覚えている)

 しかし、わからんでもないのだ。おっさんの気持ちもわからんでもないのだよ。『そうだよね。これまで一生懸命頑張ってきたのに、ぽっと出のくせして大人気の若手俳優(しかもイケメン。おっさんはハゲている)に生意気な口を効かれてさあ。スタッフも言われたことしかやんねー、なんなら言われたこともまともにやれねーってんなら、ひたすら可愛くていい匂いがして何を言っても笑ってハイと言ってくれる美人モデルは、そりゃあこの世の善をかき集めたように良い子であろう、おっさんにとっては』と、なぜかおっさんが巻いたくだに同情してしまう自分もいるのだ。

 また、その女性モデルも決して頭の中が空っぽであるがために笑うハイハイマシンと化したわけでもないだろう。いやはや、君の気持ちもかわる。わかるよ、おねえさん・・・面倒臭かったんだね!といったところではないだろうか。そら、めんどくせーわな。ざっと考えて、気に入られたところで得もなさそうだし、いちモデルを脱却して新たな活動のフィールドを広げるために議論を交わし知性をアピールする相手としてもこのおっさんでは役不足。と判断すれば、何かしら面倒臭いことを言われても余計なエネルギーは使うまい。君にはこれで十分さ、ってなところでニッコリハイをお見舞いしていたのであろう。賢い選択だ。更にはおっさんに『あの子は良い子』と頼んでもいないのに全国放送でポジティブキャンペーンまでしてもらえる特典付きだ。天才か。

 この手の天才的な女性に対して、仮にフェミニズムが台頭してハキハキともの言う女がスタンダードになればどうだろうか。仮に例のモデルの隣にいたマネージャーが「おっさん、その考えは違うと思います。女性は男性の虚栄心を満たすための道具ではありません。いち個人として意見することは女性に限らず全人類の権利です。あなたに気に入られるために私たち女性が口を閉ざし信念を曲げることなど一切いたしません。わかったなら声に出して女性への非礼を詫びろ」とか言い出したらもうちょっと地獄だよね。その場でおっさんをこてんぱんにしたとて、マネージャーはあとでモデルに怒られるだろうし、おっさんはへこんでその夜にお酒を飲みながら泣いてしまうかもしれない。なんかもう、おっさんに非があるといえどちょっと可哀想だ。

 そうなのだ。フェミニズムのムーブメントが中々高らかに起こらないのには、世の中が変わっちゃったら変わっちゃったで色々と都合の悪い女性もいるからなのではないかと思うのだ。ニッコリ笑ってハイ、は極端な例だが決して間違えていない。それを『何ヘラヘラしてんだ!お前も女として意見しろ!女が女の足をひっぱるな!』なんて迫られちゃって『えー、いや、わたし別に前のままでよかったんですけど・・・』なんて言ったものなら例の瓦礫扱いされて叩かれる。そんなのはたまったものではない、というスタンスをとる女性もいるはずだ。

 フェミニズムは難しい。特に日本というお国柄では、そもそもフェミニズムってなんじゃ?と、私のように低めのレベルから始めねばならない方が多数であろう。女性が能力的に男性に劣っているということは決してない。女性にも社会で、更には社会の上層部でどんどん活躍してもらいたい。ただ、それは女性だからではなく、その人に舵を取るに適した能力が十分にある場合だ。男だから女だからではなく、あなただから活躍してほしいと誰もが応援する世の中になれば良いと思う。

 都合の良い子もいていいし、物言う女がいてもいい。ただ、男が女を都合よく扱うのと、女が自分で都合の良い子になると決めるのでは全く異なるということを全ての男性と女性である皆様にも脳味噌に刻み込んでもらいたい。そして、物言う女を悪魔の子のように取り扱わないでほしい。男に求めるのは悪魔祓いではなく、物言う女と同じテーブルに座って議論することなのだから。


2023.05.09

ただし、興味のある話しに限る

 わたしはサピオセクシャルだ。と思っていた時期がある。

 自分自身の性的な嗜好に名称がついていたとは露知らず、そのワードを聞いた時は『ほほー!そらわいのことやないか。サピオセクシャル、なるほど。わたしの性癖にもこじゃれた名前が付いていたのだな、ふむふむ』と感心したものだ。

 サピオセクシャルとはどのように解説されているかちょいとウェブで調べてみたのだが、1998年にシアトルのブロガーでエンジニアであったダレン・ストルダーが自身の性的嗜好を表現するために作った造語、とのこと。

 サピエントとはラテン語で賢いの意味。我らホモサピエンスもここからきていますな。(生まれた時から『賢い人』なのであるよ、私たちは。わはは)

 で、ダレンは哲学的な会話をすることは彼にとっての前戯だ。とご自覚なされていた。高い知性を備えた対象に性的な魅力を感じるのだと。要は目の前にいる女性に『人が人たらしめるものとは如何なることか』とでも問うて、『ソクラテスに言わせれば知を知らぬが最もたる人である証明なり』なんて答えでもすれば、それはもうなんていうか始まっちゃってるよ、と。彼にとってのコレは会話をしてるんじゃなくて前戯の真っ最中なのだよ、と。

 古代ローマ哲学からのベッドイン。恐らくそれがサピオセクシャルという性嗜好を持つ者の事における流れなのだろう。サピオセクシャル。それは知性と欲望、フィロソフィーと動物的な欲求が相まった新たな性の扉である。のかもしれない。

 そんな命名の背景があるサピオセクシャルだが、性的な嗜好以外にも何となく思ってはいるが言語化できない感情や薄々気づいてはいたが言葉では表現できず捉えどころのない違和感になるだけだった感覚なんかにも、実にしっくりくる名称があてがわれていることが多く驚かされる。更にその形容のされ方が見事に己の感覚にハマった時はなんとも言えぬ心地よい気分になる。なるほど、今まで何者かわからなかったこの感情や感覚はつまりはこういうことであったのだなと。言語化されることで不可解だった現象や感情を頭で理解できるようになるのだ。そして、一度頭が理解すれば違和感は割とそそくさと昇華されてゆくもので、よほど心にわだかまりが残らない限りモヤモヤはスッキリと晴れていく。

 ホモサピエンスたる我々人間は説明のつくことが大好きなのだ。そして、逆のことにはめっぽう弱い。何世紀という歴史を見ても未知に対する恐怖と嫌悪、そして受け入れるのではなく排除しようとする衝動を克服する兆しは今現在でも限りなく無に近い。(近年、この辺りは世界規模でかなり頑張ってはいるのだけど、頑張り方が違うのではと思うことも多々あり、なんだかな。といったしょっぱい気持ちにさせられている。)

 それにしても、全てを言語化しようとする人間の能力、特に形容詞での表現力とはすごいものだと感心する。捉えどころのない感覚ですら形容して表現してしまうっちゅー、人知をもっての奇跡の荒技。この無責任にも次から次へと万事を解説していく『取説製造マシン』としての役割を担う形容詞の乱暴さからはどうにも目が離せない。『それ、すなわちこういうことだから』と、そこらじゅうの物事に説明書きのステッカーをひた貼りまくっている。『はい、これにて本件は説明済み』とでも言わんばかりにだ。

 名詞が『これはこうなんデス!』といった『見りゃわかるだろーが』関連の物事だけを表すなら、形容詞は『なんつーか、えっと、そんなカンジであり尚且つこんなカンジでございまして、つきましてはこのように表現させていただきます』ってな感覚で、本当にそれで大丈夫か?というような内容であっても説明済みステッカーをペーンッ!と貼り付けてしまうような、一方的で強引な側面を含んでいる。とにかくあらゆる物事は形容されて説明されて皆様にご理解をいただいているのだ。どこの誰へ向けてということではなく、人間はとにかく説明をつけることが好きだからという理由で。

 『得体の知れないものは排除しようぜ、なんかおっかないから』という人間の本能について前述したが、その抵抗として理屈をつけるのだろう。そうして未知を既知として受け入れるのだ。たとえそれが無理矢理な力技だとしても。

 そこにきてサピオセクシャルという性的嗜好のカテゴリー形容詞のご登場ですよ。哲学的な話に頭ではなく下半身が反応したエンジニアにより生み出された造語によって特定されてしまった私の知られたくなかった性癖。そこはひとつ暴かんといてほしかった。一時期は『そうです、身体的な特徴よりも、そのお方の知性にただらなぬ性的な魅力を感じております。バレちゃしょうがねぇや、うっへっへ』と開き直り、知らぬところで『ご説明済み』ステッカーを貼られていた己の性の嗜好傾向になるほどと納得していたのだが、ここにきて別の考えが浮かんできた。

 感情や嗜好(思考)や思いといった類のものを完璧に言い表すのには限界があったはずだ。そういえばそうだったよね。といった感じだが、絶筆に尽くし難いって見事な表現がそもそも存在しているわけだし。

 どうにも形容し切れない、つまりは説明、特定や断定し難い物事、感情ってのはわんさかとあるのだ。だから、何でもかんでもに無理矢理『(例の声で)説明シヨウ!』って理屈をつけなくても別にいいんじゃないの?といった考えも存在していいのではなかろうか。

 未知のものや不可解を理解しようとするのが我らホモサピエンスの特性だから仕方がないと言えば仕方がないんだけど。ある意味、本能的な行動よね、未知を解明して説明をつけるってのは。ただ、理解できないことだって必ずや、ある。しかも少なくない。であるにも関わらず、説明のつかないことイコール恐怖の対象、排除すべきものという極端な結論に至る所はホモサピエンスの初期設定のバグなのではないかと思うのだ。この設計ミスは自動車メーカーに置き換えればとんでもないリコール案件だろう。ブレーキなしで直進しかできない車を出荷したようなものだ。

 話は戻って私の性的嗜好の話しなんだが、確かにわたくしにはサピオセクシャルの傾向がある。あるにはあるのだが、よくよく考えて知性に性的魅力を感じるにしても『ただし、興味のある話しに限る』なのだよ。

 私が惹かれる知識を語られないのであれば魅力は感じられないわけで。結局は相手の知性が私を惹きつけるソレなのかそうではないのかだけであって、まあ目の前にいる男性(女性)の話してることに私が興味があるかないかだけだよね、結局のところ、ってな着地点に至ったのである。

 せっかく新たにカテゴリー分けしていただいて私の知られざる性的嗜好を特定された気分になっていたけど、要は単なる私の好みの話しなのだ。蓋を開けてよく見てみれば『興味のある事には惹かれます。それ以外の事にはそうでもありません』って。そんなん誰だってそうやないか!!という当たり前なツッコミで締め括られる結論に行き着いたのだ。

 人それぞれに好みがあるのは至極当たり前のことであるのに、その傾向に敢えて理屈を求めて説明をつける必要はあるんだろうか。理解を求めるために説明が必要だが、説明するために端的に形容されてしまった思いは本来あるべき姿よりもずっと薄っぺらいものに見えてしまう。それはあんまりではないか。

 どんな知識や知恵や物事に惹かれるかは私が決めて、私が自分の言葉でそれについてを説明したいのだよ。さらに言えば、それに名前がついていなくたっていい。誰に納得してもらうべきことでもないのだから。

 心を奪われる。心が踊る。もっと知りたいと強い関心と畏怖の念を持って自ら深みにはまりたい。そう思えること。それはどんな世界に対してなのか。

 私の好みについて、私の世界について誰か他者に解説されたくはないのだ。理由をつけられるのも説明できるのも、私だけのはずなのだから。

 最後に、私について説明するに値すると思える人に出会ったらこのように伝えたい。


 「あなたには知ってもらいたい。だから、うまく伝わらないかもしれないけど説明したい。少しでも理解して欲しいから。私が好きなのは、心を動かされるのは、例えばこういうことなのだ。なぜかというと・・・」


 これを繰り返して人と人はお互いの理解を深めるのではなかろうか。果てしないが疎かにしては決して得ることの出来ない相互理解。一筋縄では行かないほどに人を知るという事はそもそもが途方もないのだ。

 本当の気持ちを伝えるのには時間がかかる。わかってもらうまでにも時間はかかる。だから、少しずつ言葉を重ねていくしかない。それに、お互いを理解していくための時間は本当はいくらでもあって然るべきのはずなのだから。

 

※これを書きながら、サピオセクシャルであるなら私の子宮は下腹部ではなく前頭葉あたりにあるのかもしれないな、と考えたんだが瞬間的に『いや、それはキモいな』と思い止まった。性的な魅力を感じる脳の機能の役割は子孫を残す本能に起因するだろうし生殖行為そのものへと繋ぐことであるなら、私は知的好奇心をくすぐられて恍惚とした気分になっても生殖活動の本能スイッチが押される程の性的興奮は覚えないな、と改めて思うに至った。

興味深い話題には性欲に近しい興奮を覚えるが、それでもその場では股は閉じているだろう。ゆくゆく開くかもしれないが、それは知的興奮を経て性的に肉体が反応した時だ。うん、それってディナーデートして会話が楽しくて、3回目のデートでベットインってゆう王道パターンと同じだよね。既存やないか。それも、王道中の王道やないか。

となると、結局のところ私はサピオセクシャルではなく単に好みのタイプが知的な人、という事なだけであった。

ただし、私が興味のある話題に限り、なんだが。


2023.05.07