爆裂ナイーブが見た世界

爆裂な線香花火

ジブンジクのみっけ方

 みなさん。生きてるかね。生きているのかね、自分の人生を。

 こんなことを言うと「は?なにそれ。自分の人生なんだから自分の人生を生きる以外になにがあんの?なに言ってんの?」というのが世の中の大多数のご意見であろう。いや、ご意見なだけでその大多数の皆さんの実際の心の中はわからない。ただ、自分の人生を生きてこなかった歴=実年齢で三十云年生きてきた私からすると、そもそも自分の人生なんていう禅寺の坊さんと小僧さんの朝のお説法にでもなりかねないお題目が人生感として脳内で無限リフレインしている時点で私は何かしらのマイノリティーなのであろうと思うのだ。いや、マイノリティーだった。と今では言えよう。まさかこの思考が過去形になるとは以前の私は夢にも思わなんだ、というのが現時点での感想なので、世にいるマイノリティーの皆さん。恐らく悩んでおられるであろうと想像するのだが、それも過去形になる、という話を今日はしてみようと思う。ご参考になれば幸いでございます。

 自分の人生を生きるとは言い換えると自分軸で生きるということなのだが、そもそも自分軸で自分の人生を生きるってナンデスカ、って話しだ。もう、これは生きていくうえで次々と何なら毎秒ごとにやってくる選択肢を自分の判断で選びとっていく、そうやって自分で取捨選択して生きていく、ということなのだと思う。「なにソレ、そんなん当たり前やんけ」とは言わんでほしい。その当たり前がまかり通らない人生がこの世には存在するのだよ。どれだけあるかは「コンニチハ!自分の人生を生きてますか?自分軸の按配はどう?」と出会う人出会う人に聞いて回ったことがないのでその数はわからないのだが、私自身がその選択権を持たず生きていたので少なくとも一人はいます。ここに経験者がおります。コンニチハッ!

 ここでその自分の人生を生きるだの生きられないだのといった話をすると頭をよぎるのは「そんな贅沢で馬鹿なことを言ってるんじゃない。息をしてるだけありがたいと思え。黙って働いて飯食って寝ろ」という、それこそ大多数からの声だ。これは残念ながら私の空想上の意地の悪いお友達が言ったことではなく、どうすればまともに自分の人生を生きられるのかと右往左往して地べたをのたうち回っていた数年の間にそれこそ街頭インタビューのように飲み屋で出会ったおっさんたちに聞いて回った結果、言葉は違えど皆様からいただいたお言葉の総括だ。今思えば聞く相手を間違えていた感は否めないのだが、救いを求めて夜な夜な行っていたアンケート調査の対象が40~60代くらいのおっちゃんたちだったので、偏った回答結果が出たのは否めない。だがしかし、きっとそうなんだな、と思うのだ。きっとみんな「自分の人生を生きるとは」などという飯の種にもならないことは考えてはいないのだ。なぜならば、ほとんどの人はそんなことを考える以前に既に自分の人生を生きているからだ。

 いやいや、待ってくれよ。赤ん坊がホンゲァ!と生れた瞬間からその子の人生はその子のものでしょう?人生の選択肢?自分以外に誰に選択権があるの?自分以外の誰の軸で生きるというの?と、ごもっともなご意見をお持ちの方は恐らくこのブログから離脱しようとしている5秒前だとお見受けする。ただ、もう少しお付き合いいただきたい。なぜなら、自分の人生を生きられない勢の人々が自分の人生を生きるに生きられない理由の一つには、そのまっとうな感覚をお持ちの方からの無限の無理解によるところも大きいからだ。決して誰それが悪い、という短絡的な話ではないのだが、数ある要因の中のひとつではあると私は確信しているので、そうな方もそうでない方も、まずは読んでいただければよいと思う。読めばわかるさ、読まねばわからんさ。読んでもわからないかもしれないさっ!ダー!

 ひとつここで大切な話なのだが、明るい人と暗い人の違い、天真爛漫な人と陰気な人の違い、心から笑えている人とそうではない人の違い。この辺りが自分の人生を生きている人、そうでない人の違いの正体かもしれない。ブログ離脱まで3秒前の皆さんは楽しいことを心から楽しいと感じ、美味しいものを食べて美味しいと感じ、幸せとは何なのかをこまごまと「これは幸せということに該当するのやろか?」と顕微鏡を覗いてその対象の研究しなくてもよい人生を送られているのではないのだろうか。楽しさや美味しさ、幸せを「これをそう思っていいのだろうか」とワンクッション置いて自分の感覚を外から眺めるプロセスが必要がない、だから天真爛漫、つまり心に素直でいられるのだと思う。

 片や、顕微鏡をいつも小脇に抱えた勢の皆さん。「心に素直」ってなに?と、もうそこから理解が追い付かないのではないだろうか。心に素直になるという感覚は恐らく物語の中やファンタジーであって、空想上の産物でしょう?と真剣に言えちゃってる勢いではなかろうか。いや、そんなことすら思わないくらいに心に素直になるという感覚とは縁遠い毎日をお過ごしではなかろうかと思いを馳せさせていただく。だって、私がそうだったから。

 いつ、どこにいても、何をしていても、誰といても、自分がそこには居ない感覚。目の前に繰り広げられている世界が、目の前にあるのに遠い世界に感じる。どこにも自分が属していない感覚。確かに息をして、心臓は鳴って、生きてはいるのだが、その全てが自分のものだとは感じられない。私は、ずっと「他人の人生を生きているようだ」という意識があった。自分がないのだ。どこにも自分が居ないのだ。それはそれは孤独だった。ただ、それを人に悟られない術も備えていた。順応するスキルは表面上を取り繕うスキルのオリンピックで常にワールドレコードを更新していたと思う。私の心の棚は不本意な上手に立ち振る舞う選手権のトロフィーとメダルで埋め尽くされていった。ただし満足感などはあるわけがない。トロフィーを眺めるたびに虚しさだけは募っていく。たまに私のスキルを見破る人に出会うこともあったのだが「カメレオンみたいだね」との感想をいただいたことがある。カメレオン。環境によって肌の色を変え、その場に順応するように見せかける天才だ。そう。わたしもその道の天才になっていた。なぜかというと、自分がないから。自分で選ばず、選ぶということを知らないカメレオンは周りの色を自分を投影することでやっとその場に居ることができるのだ。「その場に存在することができるのだ」と書きたいところではあるが、実際には「私」はそこにいないのだから、そもそも存在していたかも怪しいものだ。

 なぜそのようなことになったのかというと、原因は別として、生きる軸を外に奪われていたからだと今でははっきりと言い切れる。本来、生きる上で当然のようにできるはずの「選択をする」という当たり前さを失っていたのだ。楽しいと思うこと、美味しいと思うこと、何かを夢見ること、自分が幸せになること、そういった物は自分で選ぶことでははなく、誰かの許可が必要。誰かに認められなければそのように感じることすらままならない。当時の自分を思い返すと虚しいという感覚もさることながら、常に混乱していたように思える。この混乱は、五感で感じることや自身の喜怒哀楽といった感情にも他者からの批評を瞬間的に考えるという余計なプロセスを嚙ませていたからに他ならない。楽しいと思うのが正解だろうか、美味しいものを美味しいと思う感覚が正しいのだろうか、幸せという感覚は果たして自分で感じ取ってよいものなのだろうかと、感じる前にまず考えてしまうのだ。なぜなら自分で選択して良い、自分で決めて良いとう選択肢を持ち合わせていないから。

 先ほど、原因は別としてと書いたが、原因とすれば世の中には他者をコントロールしようとする人が一定数いて、そしてコントロールされることを受け入れてしまう人も不特定多数いるというところにあると思う。この関係は親・子供、友人間、パートナー間、姉妹・兄弟間、社会の中での人との繋がりと、あらゆる2名以上の人間が集まるところに起こりえる。コントロールする側がもし意識せずとも結果的に相手の思考や行動を制限し思惑通り動かそうとするのであれば、その逆のコントロールされる側には実は自らコントロールされようなどという意識はない。浸透圧の違いのようにも思える。制御しようとする側は、その主だった理由とすれば自身の思惑や望み、思想なんかを相手に反映させることであろうが、そこには本人が気づいていないだけで「そうしてやろう」という意思があるのだ。要は思い通りにしたいから例え本人が意識しておらずとも相手側の選択肢を奪い、自身の選択肢を相手に与え選ばせるのだ。ここで言う選ばせる、というのは一見してあてがわれた選択肢のように見えるが、もはやそこに「選べない」という他の選択肢はない。つまり、結局選ばされた本人は選んでいないのだ。

 この選択肢を奪われがちの側にいる人間はそもそも本能的に自己防衛能力に長けていない。この自己防衛能力とは成長する過程で培われるものもあるが、生物として生まれた時からも備わっているはずだ。そして、その防御力の初期設定の精度や質がが個々で雲泥の差なのだ。凸と凹があるように、コントロールを実行する側にコントロールされる側が不幸にも出会い絡めとられた時、よっぽどの本能的な防衛本能と知恵と生命力がなければ逃れることが出来ない。

 「もっと自分の意思を持ちなよ」「嫌なことは嫌と言わないと、だからダメなんだよ」「いい人ぶっちゃって、自分が辛くないの?」「いい人だよね〇〇さんて」

 この辺りのことを言われる人は、恐らく自分で選びとるという選択権を持たされなかった人たちではないだろうか。俗に個人が「いい人」と表現される場合はその背景には相手を思いやるが最終的には自身の利も優先できるので互いがそこそこ同等の好感を持てるところに着地できる場合と、自身の利などという発想がそもそもなく結果的に相手の都合にのみに優位なところに着地するという選択をしてしまう二パターンがある。前者は周囲とは健康的な関係を築き、恐らくはコミュニティーの中で人気者と称される部類に属するだろう。なんとも幸せ者だ。では後者はというと、周りはハッピーだろうが当の本人はといえば文字通り生き地獄を生きているのではなかろうか。絡めとられ搾取され、しかし本人はそこから逃れる術を知らないので周りには「いい人」と評されてもそこに喜びなどは微塵もない。だが嫌な奴へのなり方も知らないのだ。

 自分軸の見つけ方は、この他者との間にある凸と凹の関係を見極めることも大切なのだが、そもそも自己防衛能力を備えていなければ結局は気力と生命力を吸い取られるだけになってしまう。生まれつきの能力の設定はどうしようもない。なので必要なものは後付けするしかないのだ。だがその後付けすらもそもそも何が足りていないかわからなければ補充しようがない。なので、足りないのは「自身で選択する」という決定権。そしてそれを決して他者に渡さない、すべての軸を自分の中に置くことだ。簡単なところでは、瞬間的に頭を過る「これで正しいのだろうか」という発想の一人称を自分にすることだ。他者にその軸がある限りは「〇〇にとってこれは正しいと言えることなのだろか」と主語が第三者になっている場合が多い。というか、完全に第三者になっている。これを「自分はどうなのか」「自分はどう感じるのか」「自分は嬉しいのか悲しいのか」と自分の感覚に真っ先に気づき、それに沿って自分にとって喜ばしく有益な選択を行うということが自分軸で生きるということなのだろう。その先には「自分の選択に責任を持つ」という次なる段階が待っているのだが、他でもない自分の責任なのだから、他人の選択に対する責任なんぞよりもよっぽど祝福された責任であろう。

 今回は自分で選択できている人、図らずも自分の選択を強要する人、自身の選択権を持たない人について書いたが、この構造が最後の選択権を持たない人のそれを持てない大きな原因になっている気がするのだ。なので、ブログから離脱せずここまで読んでいただいた方にはそれぞれが属している気質について認識していただければこの世は少しだけ良くなるような気がしている。

 

 人生を生きる上で選択できる権利というのは近年ようやく誰しもがそんなの当たり前でしょ、と思えるほどに常識化してきてはいるが、まだ誰しもが当たり前を当たり前とは思えないでいる世界ではある。

 これまで自分で選択したことのない人は、この先で最初の選択をする時にはとんでもない勇気が必要になる。人生初めての経験をするのだから。ただ、その先には見たこともない世界が待っていて、初めて自分の居場所を自分の中に見つけることができるはず。他人の世界で生きていた自分をようやく自分の中に見つけることが出来たら、心から喜んで、嬉しさを感じて、どうか自分に「おかえり」と言ってあげてほしい。

 

 一人でも多くの方が自分の中に戻れる日がくることを心から願ってやまない。

 

2023.9.4